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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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武田勝頼 新府城の概要 上野晴朗氏 『定本武田勝頼』

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 真田昌幸普請奉行イメージ 1

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 新城は、甲斐の甲府に対し、地を新府、城を新府韮崎城と呼んだ。この要害の地は、たしかに防護の面から見れば、両裾に釜無川、塩川の流路をひかえ、天険まことに妙を得た理想的な環境にあったといえる。しかしそれはあくまで防御の体制の面からだけで、新府中と呼ぶには、経済、交通、文化などのあらゆる面から検討すると、発展的な大規模の町づくりには不可能な、地勢環境が目立ってしまう。しかし新城の規模は、古府中の館跡などからくらべると、はるかに広大で堅固である。
 本丸跡は東西五十問(約九〇メートル)南北六十間(約一二〇メートル)ほどの広さがあり、西に一段低く、信勝公御座所と呼ばれる二の丸がある。この広さは三十問四方(約五四メートル四方)で、本丸と二の丸の問には本丸防御のための前の構えが見られる。その下に馬出と大手が続いている。坤門(端門)を通って南に回り込んでいくと、さらに一段低い地形を削平して、土塁で囲んだ西三の丸、東三の丸がある。この部内に主として信勝以外の勝頼の子息、婦人方が住むことになっていた。その南下方に片山口の望楼四間四方(約七・二四メートル)と、長さ十八間(約三二・五入メートル)の三カ月堀がある。これは甲州流にいう虎口の前に半円形の堀を掠ったもので、一種の馬出である。
 本丸の下、東から北側へかけては、腰郭、帯郭が一段ずつ低く巻いているが、さらに山裾の基部には、堀が揺られている。東から首洗池(後世の俗称)、東堀、中堀、西堀と続いており、東堀をはさんで乗出構、西出構の二十間(約三六・二〇㍍)の張り出しがある。西堀に面しては乾(いぬい)の望楼六間四方(約一〇・八六㍍)があった。
 全体に縄張りは粗放で、未完成なところが多く、石垣はいっさい使用せず、すべて土塁で囲まれている。いかにも突貫工事によってできあがったらしい
ようすが認められる。
 山裾を信州街道が束から西へ走っているが、新府城からは台ケ原へ三里、穴山へ一里、穴山の能見城は新府城の支城として看板が設けられていた。信州
街道を北西に進んでいくと、約十町(一〇九〇㍍)ほどで砦を設け、さらに穴山の伊藤窪、次第窪方面にも砦を設けてある。
 国志、古跡部にある、伊藤窪の堂ケ坂砦は、家康が若神子の北条軍に対応して砦を設けたとあるが、やはり新府城の備えとして、はじめからつくられた 砦の一つと解したほうがよい。
この外郭の防御線を見ると、次第窪の長坂氏宅址に続く地にも、堂ケ坂と同性格の砦があり、信州口へはとくに砦を多く築いたごとくである。
 新府城をめぐっては、また武田家臣の屋敷も数多く残されている。穴山氏(次第産)、山県氏(伊藤窪)、長坂氏(次第窪)、甘利氏(次第窪)、青木氏(石水)、(小山田)大学守(次第窪)、伊藤氏(伊藤窪)、その他不明の屋敷も山林中に点々と認められる。
 このうち穴山氏の宅址は、次第窪と重久との間、桟敷場と呼ばれる山林中に堂々たる館跡を残している。これは長坂上条にある長坂釣閑斎の宅址に匹敵 する遺構であり、穴山領の一部を勝頼に提供したという伝承もうなずかれるものがある。
 

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