飯田龍太論 五十代の句を中心に
酒井弘司氏著『俳句』掲載記事
飯田龍太の句の魅力はなにか。
(二)
俳人にとつて、青春、中年、老年をどう生き、どう対処していくか。人生の大きな節をくぐりぬけながら、どう年齢にみあつた句を書いていくか、これは一見やさしそうにみえて至難の業である。いま、近代俳句の誰彼を頭に描いてみても、老境を見事に書ききつた俳人は、そう幾人も脳裏に浮かんでこない。
そうしたたかで飯田は、青春の時期には天性の詩質と横?した力によつて独自のスタイルを形象し、中年に入つてからは、より、ことばを意識して独自の俳句の確立をめざしてきたが、それは句における美意識の確立といつてもよかつた。
五十代に入つてからの飯田は、
『山の木』(五十一歳~五十五歳)、
『涼夜』(五十五歳~五十七歳)
の二句集をもつたが、この二句集と、それにつづく二年問(昭和五十三年~五十四年)の句によつて、五十代の句業を知ることができる。
飯田の句の魅力は、なんといつても卓越したことばの斡旋に負うところが大きいが、それは自然と共感するという形姿があつてこそのものであつた。そうでなければ二十代から四十年間にわたつて、家郷を中心とした自然と人々ヘに眼をむけて句を書きついでくるなかで、次お自らのリズムを破つて新しい俳句を生み出すという営為は、とうていかなわなかつたにちがいたい。
眠る嬰児水あげてゐる薔薇のごとし 『山の木』
この若やいだ、みずみずしい叙情は、眠るみどり児を「水あげてゐる薔薇」という此楡で書きあげたところに手柄がある。また、六・七・六という破調の音律も、若やいだ雰囲気を、いつそう高揚するのにふさわしく効果をあげている。ただ、飯田の五十代の句で、この句のように、みずみずしい情感の横?した句は、以降あまりみられない。
沢蟹の寒暮を歩きゐる故郷 『山の木』
どの家からも春暁の駒ケ嶽
山の雨たつぶりかかる蝸牛
村深くおのれの位置に夏橡
夕冷えの炉明りに宇野浩二伝
月明の雪すこしある隣家の木
朧夜にむんずと高む翌檜
梟の瞳の宙にある梅雨の闇
種子蒔いて身の衰への遠くまで
少年の毛穴十方寒の闇
瀬を越えて木影地を這ふ晩夏かな
母の忌に掃くや林檎の木の下も
冬の雲生後三日の仔牛立つ
冬日向乾草は流人のにほひ
燕去る心音はまだ胎の中 『涼夜』
毛糸編む碧落しんと村の上
大年の水あげてゐる蘭の花
にはとりの黄のこゑたまる神無月
仔兎の耳透く富士の山開き
繭白しこゑ惜Lみなく山の蝉
冬深し扉すとんと地にひびき
これらの句には、初期からの句が一貧してもつてきた、事物によつて自らの存在感を語らせようとする強い意思がみられる。しかし、句の表情には、かつての横溢するような力は見られない。むしろ、ゆるやかに自らの齢とともに変貌をとげながら、より自在な境地をめざそうとする形姿がある。そして、どの句からも感得できる東明さ、歯切れのよさ、勁さは、自然との積極的な共感と、ことばによせる強い意思によつてもたらされるもの、といつてよい。飯田は、『涼夜』のあとがきでも、次のように書いている。
----五月書房の和装本シリーズの一巻として出す句集『涼夜』は、私の第七句集にあたる。昭和五十年から紹和五十二年夏までの約ニケ年半の作品から、計二百十句を収録した。稿をとゝのへた夜がたまたまそのやうな感じであつたから、そのまま書名とした。----
この最後のところに、自然との共感のしかたと、その共感をどのようにことばとして掬いあげるか、ということが、さりげなく語られている。
前掲の『山の木』、『涼夜』から拙いた句を読んでどうだろう。透明さ、歯切れよさ、勁さといつた飯田の句の特質は、一句を構成する細部のことばの把握力の確かさにあるといつてもよい。たとえば、「鰯夜にむんずと高む翌檎」の句を例にとつてみても、「むんず」という擬声語、擬態語による独自の把握によつて、奥ゆきのある優しい世界が見えるが、つづいて「高む」といつ措辞をおくことによつて、めりはりのきいた明晰な叙情空間を現出することになつた。
白梅のあと紅梅の深空あり 『山の木』
発表当時から世評の高かつた句である。飯田の句の特質は、一見、単純にみえることばを使いたがら、そのことばがいつたん秩序をあたえられると、重い意味をもつことばとして屹立し、その俳句空間は硬質感のつよい樹切れのよい端正な表清をみせる。はからずもこの一句は、飯田のことばへの認識を存分に見せてくれている。
「現代俳句のいちばんの欠点はなにかというと、俳句のなかに畳みこんでゆく美意識の選択の欠如だと思う。」(『龍太俳句教室』昭和52)と書いていたが、飯田は現代俳人のたかで、美意識をもつとも強くもつた俳人の一人といつてよい。
「白梅」の一句は、白梅と紅梅が微妙につくり出す時間があり、空間とLて早春の深い空がある。白梅と紅梅を結ぶ「のあと」という、時間の推移を示唆する措辞は、心にくいぱかりに巧みだ。また、句から見える彩は白と紅と碧であり、この三色のもつコソトラストはどうだろう。色彩と質感のバラソスを保ちながら、時間と空問を見事に現出している。このように洗練されたことばによつて構築された句の世界は、まぎれもたく飯田のものであり、飯田の句における美意識が、いかんなく発揮されている。
また、「白作ノート」(『近代俳句全集』(昭和53)のなかで、
「甲州野梅もいいが、じようじようとした紅梅の風情は、山園の春にふさわしい彩である。」
とも書いているが、この「白梅」の句の世界は、日本人の美意識の一つの典型といえないか。いま、脳裏に浮ぶのは尾形光琳の「紅梅白梅図屏風」だが、そこに描かれた時空も、確かな写実にもとづいて装飾化された川と白梅紅梅の図であつた。もつと溯つてもいい。わが国において梅が<花>の代名詞であつたことをおもいおこしても、この「白梅」の一句は、日本人の美意識を代表する世界といえよう。そして飯田の句のもつ美意識は中世に確立したわが国の詩歌の伝統に繋がつていく世界でもある。
さて、この「白梅」一句の評価はどうか。発表された当時の世評ほどにはおもわれない。飴山実氏は、江戸時代の梅の句と対比しながら、「現代俳句では梅の質感がうすれてきている。」(「俳句」昭和55・1座談)と語つていたが、この句にもそうした現実感の淡さをおもう。
「白梅」の一句を俎上にして、飯田の句のことばに触れてきたが、次のような句でも、そのことは窮知されよう。
大杉の下の小杉の春めく日 『山の木』
朝寒や阿蘇天草とわかれ発ち 『涼夜』
「大杉の」の句は、対句の形姿をとつているが、大胆に、また神経のゆきとどいたことばの組み立てにより、切れのよい明晰なた世界を現出している。「朝寒や」の句では、ア音が主調として反復され、句のさわやかさをリズムの面から支えている。
あるときはおたまじやくしが襲の中 『山の木』
黒猫の子のぞろぞろと月夜か次
月の夜は好きか嫌ひかなめくじり
ここにも新しい境地がみられる。俳諧の世界----遊び心がこれらの句にはあるのだ。それぞれの小動物といつしよに、心を解放している作者の貌が見えてこないか。飯田の句には、鳥がたくさん出てくるが、こんなに屈託のない底知れぬフモールが宿された形姿は、いままでついぞ見せてくれなかつたものである。
酒井弘司氏著『俳句』掲載記事
飯田龍太の句の魅力はなにか。
(二)
俳人にとつて、青春、中年、老年をどう生き、どう対処していくか。人生の大きな節をくぐりぬけながら、どう年齢にみあつた句を書いていくか、これは一見やさしそうにみえて至難の業である。いま、近代俳句の誰彼を頭に描いてみても、老境を見事に書ききつた俳人は、そう幾人も脳裏に浮かんでこない。
そうしたたかで飯田は、青春の時期には天性の詩質と横?した力によつて独自のスタイルを形象し、中年に入つてからは、より、ことばを意識して独自の俳句の確立をめざしてきたが、それは句における美意識の確立といつてもよかつた。
五十代に入つてからの飯田は、
『山の木』(五十一歳~五十五歳)、
『涼夜』(五十五歳~五十七歳)
の二句集をもつたが、この二句集と、それにつづく二年問(昭和五十三年~五十四年)の句によつて、五十代の句業を知ることができる。
飯田の句の魅力は、なんといつても卓越したことばの斡旋に負うところが大きいが、それは自然と共感するという形姿があつてこそのものであつた。そうでなければ二十代から四十年間にわたつて、家郷を中心とした自然と人々ヘに眼をむけて句を書きついでくるなかで、次お自らのリズムを破つて新しい俳句を生み出すという営為は、とうていかなわなかつたにちがいたい。
眠る嬰児水あげてゐる薔薇のごとし 『山の木』
この若やいだ、みずみずしい叙情は、眠るみどり児を「水あげてゐる薔薇」という此楡で書きあげたところに手柄がある。また、六・七・六という破調の音律も、若やいだ雰囲気を、いつそう高揚するのにふさわしく効果をあげている。ただ、飯田の五十代の句で、この句のように、みずみずしい情感の横?した句は、以降あまりみられない。
沢蟹の寒暮を歩きゐる故郷 『山の木』
どの家からも春暁の駒ケ嶽
山の雨たつぶりかかる蝸牛
村深くおのれの位置に夏橡
夕冷えの炉明りに宇野浩二伝
月明の雪すこしある隣家の木
朧夜にむんずと高む翌檜
梟の瞳の宙にある梅雨の闇
種子蒔いて身の衰への遠くまで
少年の毛穴十方寒の闇
瀬を越えて木影地を這ふ晩夏かな
母の忌に掃くや林檎の木の下も
冬の雲生後三日の仔牛立つ
冬日向乾草は流人のにほひ
燕去る心音はまだ胎の中 『涼夜』
毛糸編む碧落しんと村の上
大年の水あげてゐる蘭の花
にはとりの黄のこゑたまる神無月
仔兎の耳透く富士の山開き
繭白しこゑ惜Lみなく山の蝉
冬深し扉すとんと地にひびき
これらの句には、初期からの句が一貧してもつてきた、事物によつて自らの存在感を語らせようとする強い意思がみられる。しかし、句の表情には、かつての横溢するような力は見られない。むしろ、ゆるやかに自らの齢とともに変貌をとげながら、より自在な境地をめざそうとする形姿がある。そして、どの句からも感得できる東明さ、歯切れのよさ、勁さは、自然との積極的な共感と、ことばによせる強い意思によつてもたらされるもの、といつてよい。飯田は、『涼夜』のあとがきでも、次のように書いている。
----五月書房の和装本シリーズの一巻として出す句集『涼夜』は、私の第七句集にあたる。昭和五十年から紹和五十二年夏までの約ニケ年半の作品から、計二百十句を収録した。稿をとゝのへた夜がたまたまそのやうな感じであつたから、そのまま書名とした。----
この最後のところに、自然との共感のしかたと、その共感をどのようにことばとして掬いあげるか、ということが、さりげなく語られている。
前掲の『山の木』、『涼夜』から拙いた句を読んでどうだろう。透明さ、歯切れよさ、勁さといつた飯田の句の特質は、一句を構成する細部のことばの把握力の確かさにあるといつてもよい。たとえば、「鰯夜にむんずと高む翌檎」の句を例にとつてみても、「むんず」という擬声語、擬態語による独自の把握によつて、奥ゆきのある優しい世界が見えるが、つづいて「高む」といつ措辞をおくことによつて、めりはりのきいた明晰な叙情空間を現出することになつた。
白梅のあと紅梅の深空あり 『山の木』
発表当時から世評の高かつた句である。飯田の句の特質は、一見、単純にみえることばを使いたがら、そのことばがいつたん秩序をあたえられると、重い意味をもつことばとして屹立し、その俳句空間は硬質感のつよい樹切れのよい端正な表清をみせる。はからずもこの一句は、飯田のことばへの認識を存分に見せてくれている。
「現代俳句のいちばんの欠点はなにかというと、俳句のなかに畳みこんでゆく美意識の選択の欠如だと思う。」(『龍太俳句教室』昭和52)と書いていたが、飯田は現代俳人のたかで、美意識をもつとも強くもつた俳人の一人といつてよい。
「白梅」の一句は、白梅と紅梅が微妙につくり出す時間があり、空間とLて早春の深い空がある。白梅と紅梅を結ぶ「のあと」という、時間の推移を示唆する措辞は、心にくいぱかりに巧みだ。また、句から見える彩は白と紅と碧であり、この三色のもつコソトラストはどうだろう。色彩と質感のバラソスを保ちながら、時間と空問を見事に現出している。このように洗練されたことばによつて構築された句の世界は、まぎれもたく飯田のものであり、飯田の句における美意識が、いかんなく発揮されている。
また、「白作ノート」(『近代俳句全集』(昭和53)のなかで、
「甲州野梅もいいが、じようじようとした紅梅の風情は、山園の春にふさわしい彩である。」
とも書いているが、この「白梅」の句の世界は、日本人の美意識の一つの典型といえないか。いま、脳裏に浮ぶのは尾形光琳の「紅梅白梅図屏風」だが、そこに描かれた時空も、確かな写実にもとづいて装飾化された川と白梅紅梅の図であつた。もつと溯つてもいい。わが国において梅が<花>の代名詞であつたことをおもいおこしても、この「白梅」の一句は、日本人の美意識を代表する世界といえよう。そして飯田の句のもつ美意識は中世に確立したわが国の詩歌の伝統に繋がつていく世界でもある。
さて、この「白梅」一句の評価はどうか。発表された当時の世評ほどにはおもわれない。飴山実氏は、江戸時代の梅の句と対比しながら、「現代俳句では梅の質感がうすれてきている。」(「俳句」昭和55・1座談)と語つていたが、この句にもそうした現実感の淡さをおもう。
「白梅」の一句を俎上にして、飯田の句のことばに触れてきたが、次のような句でも、そのことは窮知されよう。
大杉の下の小杉の春めく日 『山の木』
朝寒や阿蘇天草とわかれ発ち 『涼夜』
「大杉の」の句は、対句の形姿をとつているが、大胆に、また神経のゆきとどいたことばの組み立てにより、切れのよい明晰なた世界を現出している。「朝寒や」の句では、ア音が主調として反復され、句のさわやかさをリズムの面から支えている。
あるときはおたまじやくしが襲の中 『山の木』
黒猫の子のぞろぞろと月夜か次
月の夜は好きか嫌ひかなめくじり
ここにも新しい境地がみられる。俳諧の世界----遊び心がこれらの句にはあるのだ。それぞれの小動物といつしよに、心を解放している作者の貌が見えてこないか。飯田の句には、鳥がたくさん出てくるが、こんなに屈託のない底知れぬフモールが宿された形姿は、いままでついぞ見せてくれなかつたものである。