馬場美濃守と『甲斐国志』内藤修理亮昌豊の項
昌豊ハ爲 人度量アリ。閑雅小節ニ不抱馬場美濃守 山懸ニ抗衡シテ諸将の魁タリ。永禄12年(1569)信玄略地武相ニ至リ逼小田原昌豊東道ノ先鋒トシテ進ミテ四ツ門蓮池ニ入ル戦将ニ酣ナラントスル時馬場美濃ハ後陣ニ在リ使早河彌三左衛門昌豊ヘ謎カケテ云「いとけのくそくてきをきる」昌豊解テ云「こたち」早川往 返シテ蒙炮創二ト云。
(按スルニ實ハ先陣ノ様ヲ侯スルナリ。絲毛具足斬敵ハ大敵ナレハ胴勢ヲ固ク備へヘ兒戯ノ如ク會左釋シテ輕ク撃レヨト云意ナラン。昌豊モ其心得なリシトテ小太刀ト答ヘシナルヘシ)
同時退キ口ニ三増峠ニテ一戦ノ時内藤ハ小荷駄ヲ警固シテ脇ノ方ニ在リ。
山路嶮ニシテ長蛇ノ首尾合ヲ事遲シ魁兵山懸カ先ノ見ユルニ及ヒテ内藤ヨリ使寺尾豊後馬場ヘ謎ヲ贈ル。
「待霄に更行かぬの聲きけは」、馬場答曰「車牛離牛」(按ニ長蛇ノ首尾合ヒテ待詫タリト云意カ、来ル間モ憂シト雖モ既ニ来リ挑戦、敵モ大軍ナリ。
離散スル事モ亦容易ナラント答ヘシナラン方言牛通憂)他人の戦ヲモ身ニ引受クル趣ナリ。
昌豊ハ爲 人度量アリ。閑雅小節ニ不抱馬場美濃守 山懸ニ抗衡シテ諸将の魁タリ。永禄12年(1569)信玄略地武相ニ至リ逼小田原昌豊東道ノ先鋒トシテ進ミテ四ツ門蓮池ニ入ル戦将ニ酣ナラントスル時馬場美濃ハ後陣ニ在リ使早河彌三左衛門昌豊ヘ謎カケテ云「いとけのくそくてきをきる」昌豊解テ云「こたち」早川往 返シテ蒙炮創二ト云。
(按スルニ實ハ先陣ノ様ヲ侯スルナリ。絲毛具足斬敵ハ大敵ナレハ胴勢ヲ固ク備へヘ兒戯ノ如ク會左釋シテ輕ク撃レヨト云意ナラン。昌豊モ其心得なリシトテ小太刀ト答ヘシナルヘシ)
同時退キ口ニ三増峠ニテ一戦ノ時内藤ハ小荷駄ヲ警固シテ脇ノ方ニ在リ。
山路嶮ニシテ長蛇ノ首尾合ヲ事遲シ魁兵山懸カ先ノ見ユルニ及ヒテ内藤ヨリ使寺尾豊後馬場ヘ謎ヲ贈ル。
「待霄に更行かぬの聲きけは」、馬場答曰「車牛離牛」(按ニ長蛇ノ首尾合ヒテ待詫タリト云意カ、来ル間モ憂シト雖モ既ニ来リ挑戦、敵モ大軍ナリ。
離散スル事モ亦容易ナラント答ヘシナラン方言牛通憂)他人の戦ヲモ身ニ引受クル趣ナリ。