馬場信房の墓 白州町白須自元寺
(『甲州の名将 馬場美濃守信房とその子孫』長篠戦史資料その2 丸山彭氏著)
一部加筆
はじめは寺僧の墓と並んでいたが、区劃整理の都合で馬場祖三郎家の単に接して建てられた。関東地方に多い形式の板碑で、今は自元寺馬場氏墓地にある。
自元寺の墓地にある。塔婆の右側の板碑が馬場美濃守信房の墓石である。
信房の墓石(板碑)の傍に五輪塔がある。調査の折、この五輪塔を信房の石塔と思い込んで帰町し、後になって手紙で照会した所、山崎秀雄師から、次のような意味の御返事をいただいた。
馬場ほの氏の夫、祖三郎氏(高根町細田家)は養子で、甲府市に移り、開狭楼という料亭を営んでおられたが、今はその子孫が武 蔵野市に住んでおられる。同家の内項の屋敷は広大で、当時の菅原原が買い取った。(現診療所付近)
この屋敷に大欅と大きな石桐とがあって、その前に五輪塔があった。馬場家から、大欅と五輪は働かさずに保存してほしい と申し込んであったが、祖三郎・ほの両氏共に他界された後は、五輪塔は郷社八幡社の裏に移された。このままでは、馬場祖三郎家の五輪塔かどうか、わからなくなるので、当主に説いて、自足寺の現在位置に移した。移動する時は人夫委せだったので、五輪塔に混乱があったらしい。
信房公の遺骨は家臣原四郎が甲州に持ち帰り、自足寺で法事を営んだと記してあるが、埋葬した場所についての伝承も文書もない。
自元寺の由緒書には、遺品と遺骨を甲州に持ち帰ったとあるが、これは遺髪を指しているものと思う。
美濃は、天正三年五月二十一目、敗走する武田軍の殿をつとめ、織田軍に追撃される最中で、敵に首級を与えたのであるから、その時点では、家臣が遺骨を持ち帰る予猶はなかったと思う。
信房はこの戦で討死すれば、首級は敵手に渡ることを覚悟されての進撃であるから、遺品や遺髪を家臣に渡して、死後のことも言いふくめておかれたであろう。家臣は白光寺で葬儀を行った後、遺髪をここに葬るのは自然の成り行きであるが、武田氏滅亡後は厳しい残党狩を恐れて、葬った場所を秘密にしているうちに、記録も言い伝えも消滅したのではなかろうか。
(『甲州の名将 馬場美濃守信房とその子孫』長篠戦史資料その2 丸山彭氏著)
一部加筆
はじめは寺僧の墓と並んでいたが、区劃整理の都合で馬場祖三郎家の単に接して建てられた。関東地方に多い形式の板碑で、今は自元寺馬場氏墓地にある。
自元寺の墓地にある。塔婆の右側の板碑が馬場美濃守信房の墓石である。
信房の墓石(板碑)の傍に五輪塔がある。調査の折、この五輪塔を信房の石塔と思い込んで帰町し、後になって手紙で照会した所、山崎秀雄師から、次のような意味の御返事をいただいた。
馬場ほの氏の夫、祖三郎氏(高根町細田家)は養子で、甲府市に移り、開狭楼という料亭を営んでおられたが、今はその子孫が武 蔵野市に住んでおられる。同家の内項の屋敷は広大で、当時の菅原原が買い取った。(現診療所付近)
この屋敷に大欅と大きな石桐とがあって、その前に五輪塔があった。馬場家から、大欅と五輪は働かさずに保存してほしい と申し込んであったが、祖三郎・ほの両氏共に他界された後は、五輪塔は郷社八幡社の裏に移された。このままでは、馬場祖三郎家の五輪塔かどうか、わからなくなるので、当主に説いて、自足寺の現在位置に移した。移動する時は人夫委せだったので、五輪塔に混乱があったらしい。
信房公の遺骨は家臣原四郎が甲州に持ち帰り、自足寺で法事を営んだと記してあるが、埋葬した場所についての伝承も文書もない。
自元寺の由緒書には、遺品と遺骨を甲州に持ち帰ったとあるが、これは遺髪を指しているものと思う。
美濃は、天正三年五月二十一目、敗走する武田軍の殿をつとめ、織田軍に追撃される最中で、敵に首級を与えたのであるから、その時点では、家臣が遺骨を持ち帰る予猶はなかったと思う。
信房はこの戦で討死すれば、首級は敵手に渡ることを覚悟されての進撃であるから、遺品や遺髪を家臣に渡して、死後のことも言いふくめておかれたであろう。家臣は白光寺で葬儀を行った後、遺髪をここに葬るのは自然の成り行きであるが、武田氏滅亡後は厳しい残党狩を恐れて、葬った場所を秘密にしているうちに、記録も言い伝えも消滅したのではなかろうか。