真田信尹の墓
『山梨県史跡名勝記念物調査報告書』
北杜市長坂町 龍岸寺
北杜市須玉町 大蔵 少林寺
- 名称 真田隠岐守信尹の墓
- 所在地 北巨摩郡日野春村長坂上条(現長坂町) 龍岸寺境内
- 地目 共葬墓地
- 地籍 村有地
- 所有者 龍岸寺
- 現状
墳塋は寺背の境内共同墓地中に在りて、元は五輪塔ありしものの如きも、現今はその残骸を留め、形式計りに三基並立せり。而し後の世の寄せ集めにて名残りを有せしに過ぎざるも、石質形状環境より帰納して、古色蒼然当時のものたるや、略は窺知することを得る。年代法名等何等記する所なく、確実に立証すべき資料に乏し、側に三塔の石塔あるも何れも文字摩滅し、石剥ぎ落として容易に読み能わざるも、辛うじて判読すれば左の如し。
寛永九年(一六三二)
- 為 真田無齊居士造立之(長さ三尺六寸 幅六寸)五月四日寛永七年(1630)
- 為月浦宗香大姉造立之七月五日承応二年(1653)
- 為樹山林白大居士正月五日
- 寂照院殿明岸了大居士延宝八年(1680)五月四日卒
一、は真田隠岐守信尹。
二、は信伊夫人。
三、は長子長兵衛。
四、は次子左兵衛の墓。
信伊は真田幸隆の四男昌幸の弟なり。「大三川志」に幸孝又は信昌とあり。初宇は源二郎、信玄に仕え、加津野氏を継ぎ、市右衛門と称せり。勝頼の亡き後、本姓の真田に復し、北條氏に属し、天正十二年(1584)家康に仕え 食禄二千石を賜わる。天正十八年(1590)遠山直政と志を家康に通じ、江戸城の戌兵を遂、信伊入城して家康を竣つ、功により一萬石を併せ領せしが、加恩が少ないのを恚(いか)り、去って豊臣秀吉に就きぬ。後に蒲生氏郷に属し、食禄六千石を賜わりしが、後に再び徳川家康に召還せられ、甲斐国三千石を賜わり、使番旗奉行となり、一千石を加増され、文禄中(1592~95)隠岐守に叙爵せらる。子幸政、信勝並びに子孫幕府に仕える(野史)。
信伊、甲斐国地頭となり、三千石を賜わり、食邑(村)を左の如し。
- 高 三百四十三石七斗八升 長坂上条村
- 高 三十三石一斗八升 大井ヶ森村
- 高 五百五拾八斗三升七合 村山北割村
- 高 六百三拾九石六斗七升 小倉村
- 高 六十九石六斗七升 中丸村
- 高 五百七拾五石八斗八升 大蔵村
- 高 九拾弐石六斗九升 松向村
- 高 六百拾石弐斗九升 黒沢村
この他
- 高 四拾一石
- 高 拾二石五斗七升
- 高 四拾八石
- 高 四拾八石
- 高 拾八石
総計 三千四拾三石九升(慶長六年郷村高帳による)
『甲陽軍鑑』に云う、永禄十六年(註、永禄は12年まで)、駿州深沢にて、北條左衛門大夫が「地黄八幡」の差物を捨てたのを源次郎に賜う。『難波戦記』に云う、隠岐守は黄色旗に八幡と書たるを差すと即是也。
『甲斐国志』に云う、加津野市右衛門と名を改め、加津野氏の跡目となる。壬午(天正十年 1582)の後、本姓に復し幕府に奉仕し、小田原、大阪等の役に御使番を勤める。
『甲斐国志』云う、真田隠岐守の宅蹟は、北巨摩郡穂足村大蔵区にありしと。
現今神主赤岡巽氏の屋敷は即之なりと云う。大蔵は隠岐守所領の地なり、依ってこの地に居宅を構えしならん。
- 微證物件
- 麻上下 一着
- 馬の笞(むち) 一本
- 馬杓 一個
- 陣笠 一個
- 弄泉奇鑑 十三冊
真田氏の使用せるものなることは、一見疑いを容れる余地なし。
何れも真田家の六文銭を附せり。
右書は天保七年(1837)春、後藤真田長兵衛寄贈の由緒書あり。
****参考資料『須玉町史』****
慶長古石高帳 | 寛永元年 | 現市町村名 | |
長坂上条村 巨摩郡 | 343,78 | 343,78 | 北杜市長坂町 |
大井ケ森村 巨摩郡 | 33,18 | 北杜市長坂町 | |
村山北割村 巨摩郡 | 558,37 | 558,37 | 北杜市高根町 |
小 倉 村 巨摩郡 | 639,67 | 639,67 | 北杜市須玉町 |
中 丸 村 巨摩郡 | 69,29 | 69,29 | 北杜市長坂町 |
大 蔵 村 巨摩郡 | 575,88 | 575,88 | 北杜市須玉町 |
松 向 村 巨摩郡 | 92,69 |