真田隠岐守知行地一覧
『須玉町史』通史編 第一巻 近世社会の成立 一部加筆
慶長古石高帳 | 寛永元年 | 現市町村名 | |
長坂上条村 巨摩郡 | 343,78 | 343,78 | 北杜市長坂町 |
大井ケ森村 巨摩郡 | 33,18 | 北杜市長坂町 | |
村山北割村 巨摩郡 | 558,37 | 558,37 | 北杜市高根町 |
小 倉 村 巨摩郡 | 639,67 | 639,67 | 北杜市須玉町 |
中 丸 村 巨摩郡 | 69,29 | 69,29 | 北杜市長坂町 |
大 蔵 村 巨摩郡 | 575,88 | 575,88 | 北杜市須玉町 |
松 向 村 巨摩郡 | 92,69 | 92,69 | 北杜市長坂町 |
黒 沢 村 巨摩郡 | 610,27 | 610,27 | 北杜市高根町 |
下条東割村 巨摩郡 | 41,00 | 41,00 | 韮崎市 |
上条中割村 巨摩都 | 12,55 | 12,55 | 韮崎市 |
藤 田 村 巨摩郡 | 48,00 | 48,00 | 南アルプス市若草 |
11か村 302,468 | 10か村 299,187 |
真田氏
真田氏は、信濃国真田郷を発祥とする滋野一族の豪族である。
町域(須玉町)に所領を持っていた真田氏は、戦国期に武田氏に仕えた真田幸隆(幸綱)の四男信昌の系統である。
真田隠岐守信昌は、武田信玄・勝頼に仕え、一時は真田氏を出て甲斐の国衆である加津野氏の名跡を継ぎ、加津野市右衛門尉と名乗り、武田氏の奉行衆となっていた。加津野市右衛門尉が奉者となった武田氏宋印状は数点確認されている。
天正一〇年(一五八二)に武田氏が滅亡し、徳川家康が甲斐に入国すると、加津野市右衛門尉はいち早く家康に属し、天正壬午の乱に際しては徳川方として、武田遺臣の懐柔に活躍した。特に、北条氏直に属していた実兄真田昌幸を徳川方に誘引するための工作に、依田信審とともにあたり、ついに昌幸を徳川方とすることに成功し、北条氏直軍の補給路を遮断して、北条氏を甲斐・信濃から撤退させた(「譜牒余録」)。この功績により、信昌は家康から褒賞され、金五〇両を与えられている(『寛永諸家系図伝』等)。
その後、一時徳川氏から離れて豊臣大名蒲生氏郷に属していたというが、詳細は判然としない。また、信昌がいつから加津野氏から旧姓の真田氏に復したかも明らかでない。
記録に真田信昌が再び登場するのは、慶長一九年(一六一四)一月二七日に江戸幕府から屋代秀正・三枝昌吉とともに甲斐国巨摩郡において一万五〇〇〇石を給与され、その配分を指示された文書である(「屋代家文書」)。この際に、真田信昌に与えられたのは三、〇〇〇石であった(表11)。
信昌は、徳川氏の御便番となり、大坂の陣に参戦して活躍した。特に、大坂冬の陣終了後、家康の密命を受けて、大坂方に属していた甥の真田信繁(幸村)を訪ね、徳川方へつくように説得、信繋がこれを断つ…とは有
名である(「真田家御事続稿」)。信昌はその後、御旗奉行に進み、知行地はそれにあわせて一、000石加増さ
れた。
信昌は甲斐の知行地を支配するために、大蔵村に屋敷を構え、知行地の村の農業を安定させるために堰の開発を行っていたことが知られており、小倉村の井堰は真由隠岐守の援助によって整備されたことが伝えられている。
甲斐国は元和二年(一六一六 一説に同四年)から徳川忠長が入封し、甲斐国の津金衆・小尾衆・武川衆をはじめ、屋代氏・三枝氏などの旗本もすべて忠長の家臣団に編入されたが、真田信昌のみはこれに配属されず、幕府直臣の旗本としての地位を保った。幕府から徳川忠長家老に宛てた忠長領地目録の中に、真田隠岐守領三、〇〇〇石が除外されて記述されているのはそのためである(「東武実録」)。
こうした事情から、真田氏は寛永九年(一六三二)の徳川忠長改易に連座して追放、蟄居といった奇禍を免れている。
寛永八年五月、暦日は八八歳の長寿をもって病没し、その家督は長兵衛幸政が継いだ。相続に際して幸政は、実弟内蔵助信勝に一、〇〇〇石を分与している。幸政は、幕府の目付などの要職を歴任し、承応二年(一六五三)一月に病没している。
真田氏の所領は、その後どのような経緯をたどったのかについては、不明の点が多い。宝暦二年(一七五二)の巨摩郡大蔵村の村明細帳によれば、万治三年(一六六〇)に取り払われたとの記述がある。実は真田氏の系譜は、幸政没後にその子左兵衛幸信が相続するが病没し、嗣子がなかったために改易処分になったといわれる(『寛政重修家譜』)。ところが系譜では、没年が「某年」とあり不明とされているのである。もし大蔵村の明細帳に記載されている伝承が事実とすれば、真田幸信は万治三年(一六六〇)に病死し、嗣子なきにより改易とされ、真田領は幕府に接収されたと考えられる。