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長坂町 龍眼寺 真田隠岐守信尹の系譜

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真田隠岐守信尹の系譜
  真田一族の系譜 田中誠三郎氏著(松代史談会会長)
真田一族の系譜 『歴史と旅』「特集 戦国真田軍旗」昭和60年刊

 (略)
隠岐守信之(信伊 のぶただ)の系譜
・真田幸村が大坂の陣を前にして大坂城へ入城したことは、徳川家康にとって大きな心理的打撃であったにちがいない。そこで家康は旗本の真田隠岐守信尹(信昌が正しい)に命じていろいろと有利な条件をしめして懐柔を試みたが、遂に幸村は応じなかった。
 その信尹は幸隆の四男だが母は分らない。幼名を源次郎といい、武田氏の一門加津野氏を継ぎ、加津野市右衛門と称した。
 『甲陽軍鑑』に「信州先方衆 かず野市右衛門 十五騎足軽十人持」とあるのがそれである。永禄十二年に北条左衛門太夫網成を相州深沢城に攻めたとき、網成の旗印の「黄八幡」の旗を奪って信玄から激賞されている。この旗ほ、現在も真田宝物館に所蔵されている。
 天正十年(一五八二)に武田氏が滅亡したあと徳川家康に仕え、甲斐国巨摩郡のぅちで三千石の知行をうけた。関ケ原および大坂冬・夏の陣に戦功をたて千石を加増され御旗奉行となり、寛永九年(一五三二)五月四日、八十六歳で没した。
山梨県長坂町龍眼寺に墓がある。
 妻は武田氏の臣馬場美濃守信房(氏勝ともいわれる)の娘である。同家から本家の松代真田家に寄せた「親類書」に次の如くある。
 信声の長男は長兵衛幸政(三千石・御鉄砲頭)、二男は内蔵助正信(信勝とも。千二百石・御花畑組頭)といった。幸政の妻は昌幸の娘であるが、その子の左兵衛幸信二千五百石)に子がなく断絶。
二男幸能(五百石)にも男子がなかったが、娘に縁続きの妻木彦右衛門頼照の二男幸頼を迎え、それ以後は幸隆-幸久-幸定-幸充-幸徳と続いた。
 なお松代藩士柘植信辰の書いた「真田家御系図」に次のようなことが書いてある。
・・幸政の子の幸信に男子がないため、幸政の妻(昌幸娘)は、二男の幸能に
跡目を継がせたいと思い運動したが「遺跡断絶知行召し上げられる」との判決で幸信系は断絶した。また幸能の養子となった幸頼(妻木氏)の母も昌幸の娘で、紀州九度山にて御召仕女の御腹に御出生、大坂陣のとき酒井左衛門尉の手の者に捕えられしを、妻木彦右衛門が聞き出し縁組、徳川秀忠公この由を開かれ御勘気ありしが後年御免なり・・。(下略)

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