素堂著、『鳳茗記』
凡茶のたねの、わが日の本にわたりしは、建仁寺の開山千光國師、栂尾の明憲上人、同船に入唐して携へ来り、筑前のせふり山に植そめしか也。是を岩上の茶と號す。それより栂尾へうつし、宇治へうつす。それより以前も、日向國健千ほといふ所に、神代の木あり。しかれどもこれをつみ、是をほうじて飲む事をしらず、あれどもなきがごとし。数奇の字、漢書李廣が傳に見えたれども、茶のことにあらず。茶の式法は、東山慈照院義政公、天下の名器をあつめて、茶の會を催ほし玉ふ、此時南都より珠光を召て、それより能阿彌相阿彌藝阿彌と傳来して、和泉の境に武田紹鴎、此道をうけつぎ、宗易に傳ふ、利休と號す。秀吉公めし出され、
三千石まて御取立、天下の大名小名、もてはやすといへとも、故ありて天正十九年二月廿八日、切腹おほせ付られ、年八十。惣領道安は出奔して病死す子なし、二男少庵は會津蒲生飛騨守殿へ御預けなされ、七十の後御赦免、其子宗旦、宗旦に三子あり、宗左宗専宗室、此三男洛陽にありて、茶道の師範たり、拆茶の種國國へはびこり、中人以上は挽茶を用ゐ、中人以下はせんし茶を用う。しかれとも、貴人にてせんし茶を好たまふあり、また賤しきものにもひき茶を好めり。そのたのしみにおいては一也。それ人の人たる道は、禮義を大なりとす。鳥獣にも寒暑をしり、死をおそるゝことは人におなし。かれには禮義なし、禮は飲食たくはへ、手にてくむの時、はや禮義備はれり、それよりまゐれ、いやそれよりといふを以て、禮の字をいやと訓す。されば茶に天然と禮義あれば、少年の人に、六藝の外に一藝くはえて、茶の式法ををしふべきことなり。物みな一得あれば一失あり、茶には得ありて、失なし。またちかきころ、鎌倉雪の下に、了明といふ尼、みそちあまりより食をたち、茶のみにて(以下半帋ばかり欠文あり)神へ備へて、清浄なるもの、茶よりまされるはなし。是をしたしみ、これをたのしむべきのみ。