甲斐国志<富士山>
甲斐國志巻之三十五 山川部第十六ノ上都留郡 読み下し
郡ノ西南に当り南面は駿河に属し、北面は本州に属す。
東南は大行合(八合目)より東の方、大天井、小天井、それより下りて「七ツ尾根」、
それより「天神峠」を見おろし「かご(籠)坂」へ下る事百五間、又東南へ下る事二丁三拾七間にして、甲駿の国界たり。西は「藥師カ嶽」より「無間谷」、「三ツ俣」それより、長山ノ尾崎に下り、「三ヶ水」、「狐ヶ水」、裾野に至り「裂石(われいし)」まで、また甲駿ノ國界ナリ。八合目より、頂上に至りて、両国の境なし。東南、籠坂峠より西北「裂石」に至るまで裾野の間、拾三里故に古へより「駿河の富士」とは云えども、七分は本州の山なり。
天正五年武田勝頼、浅間明神への願書に古人云。三州に跨ると雖も、過半は甲陽の山なり、とあるはこれなり。(古より三州に跨る諸記にあれども、実は二州のみ)登山路の北は、吉出口、南は須走口、村山口、大宮口の四道なり。そのうち須走道は八合目に至り「吉田道」と合す。故にこの所を「大行合」と云う。村山道、大宮道に合す。故に頂上に至りて唯南北二路なり。南面を表とし、北面を裏とすれども、古より諸園登山の族人は北面より登る者多し。故に北麓の村落吉田、川口二村に師職ノ者数百戸ありて、六七両月の間参詣の族人を宿せしむ。これにて案内者を雇い、これに旅具等を持たしむ。
吉田より「鈴原」まで三里、道険ならず故に馬に跨(またが)り登山する。まず、「山役銭」として参詣の旅人より、師職共百二十文請け取る(古は二百四十四文なりしとぞ、今はその半減なりと云う。この内不浄祓いの料三十二銭、役行者堂二十銭。(賽銭)「中宮」三十二文、(内十六文は休息料)。
「薬師が嶽」、二十文。(内十四銭は大宮の神主、六銭は吉田の師職)古へは、この役銭を領主に上納せしとぞ。天正十八年十一月十五日、領圭加藤作内より與へし文書に----不二(富士)山御改に付き河尻氏に被卯付候。以先書訴之條の如く先規爲、道役料、青鋼四貫文、師職共慥(たしか)に上納爲其記、刀一慨棄光作寄附於神前可帯之委細者可爲前々事----、とあるは是也。「採薬小録」に駿河大納言様山の道法御改の節、上吉田村鳥居より御改の由、富士の山上まで、吉田よりおよそ三百五拾七町七間半ありとぞ。この鳥居は浅間社中五丈八尺の大鳥居の事なり。
<日本武尊>
是より登山門を出て、松林の間を南行すること三町ばかり左方に、一堆丘あり。大塚と称す。塚上に小祠あり、「浅間明神」を祭る。土人相伝え云う、上古日本武尊(やまとたける)東夷征伐の帰路、道を甲斐國に取り、富士を遥拝したまえし地なり。後世、塚を築きその徴とし、上に小祠を建るとぞ。口碑に伝わる歌あり
あつまち(吾妻路)の蝦夷をむけしこのみこ(御子)の御威稜にひらく富士の北口----
是よりして北口の道は開けしとぞ。
<諏訪ノ森・麗水(浅間神社の御手洗の源)>
林間を行く十一町にして高原に出る。この林を「諏訪ノ森」と云う。御林也。また南行する事、十町ばかりにして小坂あり。この地を「御茶屋」ト云う。古へ茶店などありし地なるべし。またここより東方八町ばかり、麗水湧出る所あり。およそ広野の間絶えて水なし。唯ここに在るのみ、これを「泉津」と称す。
土人相伝えて云う、建久四年源頼朝富士野の狩の時、此広漠の地、一滴の水なくして、士卒皆渇に憎みける時、頼朝心に淺間明神を念じ、鞭を以って巖を打しかば忽ち麗水湧出づ。因て此水を「仙瑞」とも名づくと云う。今「泉津」と云うは詑なりとぞ。然れとも、天正の末の文書にも「泉津」ノ水道云云とあれば、猶古より「泉津」と云いしにや。また「夜倍ノ水」トモ云いて、夜に入れば水倍増すと云う。この水を引入れること数十町にして「浅間明神」の社地に入り、御手洗となる。
<胎内穴>
また道より西へ入る事十一町にして、大なる洞穴あり。胎内穴と云う。洞口径五尺ばかり、石面滑らかにして創るが如し。入る事四五丈にして、傍に折れて下り背向し足よりして、漸く下る是を「子返り」と云う。少し下りて平なる巖上に出る。然れども上岩甚夕迫り立事不能葡(這う)匐(腹ばい)して漸く進む。この所乳房の形をしたる岩あり。水溜りて落ちる事乳の如し。また進む事十丈ばかり少し広くして歩行しやすし。最向きに大日の銅像を安置する。これ浅間明神の本地佛なり。「産ノ組」という岩あり。紐のめぐり集れる形なり。盤石あり。円にして盥(たらい)の如し。中に胞衣の如き岩あり。これより奥、なお深く見ゆれども、狭くして入事能はず。窟中すべて人の胎内に似たるか故に名づくと云う。
「浅間明神」、出現の古跡とて、富士参詣の族人必ずこの洞穴に入る事とす。洞上二大なる「石地藏」あり。傍らに島「籠屋」(こもりや)一宇あり。この辺りすべて縄を紛乱せるが如き形の石あり。色は鋼色にして重亦銅鉄に類せり。焼石の溶流して斯く結ばれたるものと見ゆ、この如きの小穴裾野の内数多あり。想ふに、貞観の爆火に大石焼溶けて、大木の根これが爲に蓉範となりて纏ひ固まりしが、数百年をふるままにその木、朽失してその跡かかる空穴となれるなるべし。
また本路に返れば四方石垣をめぐらし、山路その間を通ずる地あり。中に茶店一宇(あり)その両端に株木門あり。この所を「遊興」と称する。何の所爲たる事を知らず。これより行くこと二町ばかり、「姥子」と云地あり。古は小堂あり「三津河原ノ姥ヲ安置スル所ナリ」と云う。礎石今なお存せり。この辺りより東五町ばかりに「白緑松ノ古木」あり、大二圍余「籏掛松」と云う。相伝え云う、建久四年裾野巻狩の時、旗を此松に掛けしとぞ。また路より西方十町ばかり、大木(が)五株並立てり。大各五圍余、鳥居木と称する。淺間社中大鳥居造営の材なりと云う。また行く事十余町にして、道漸く急なり。この辺りを「騮(くるげが)が馬場」と云う。古は淺間の祭禮に「流鏑馬」ありし地なりとぞ。後止て、今は勝山及下吉田浅間祭礼に流鏑馬あり。この「騮馬場」の神事を移せるなりと。
天文十七年、小山田信有カ印書に「騮の馬場」之上へ鳴物從古法度之事候間、此段向後可被相心得者也とあり、古へはここより山上、鳴物を禁ぜし所以なり。しばらく山足に迫りて「鈴原」と云う所あり。俗これを「馬返シ」云う。登山門より、この島に至るまで三里、茶店四軒あり。人皆馬より下りここより上は歩陟(のぼ)る。路益々急にして、古木立繁り、荊棘(いばら・とげ)道を塞げり。この地を測量すれば、高さ御坂の峠と斉しと、この地「高御坂峠ノ絶巓(いただき)」と齊しと云う。登る事二町ばかりにして「大日社」あり。「鈴原大日」と称する。「勝山記」に享禄三年三月、「騮カ馬場」の大日堂炎焼。同じく大日像、焼めされ候とあるはこれなり。その頃はこの辺りまで「?カ馬場」と云ひしにや。大日堂の騮カ馬場に在しを焼失の後、山上に移せるにや。傍らに神明の社あり。(出。神社部)これを一合目と称する。すべて是より頂上に至るまで、里数を称せずして、「合勺」を以って、数へ十合に極まる。「神社考」に曰、「孝安天皇九十二年六月、富士山湧出、初雲霞飛來如穀聚」云々、依之後に「穀聚山」とも称する。山形平地に穀を盛るが如くなればなり、故に穀を量るに升を以ってするに准らへ、山路を測る称号とすると云う。およそ一合を一里に准らふ。その実は鈴原より絶頂に至るまで七里ばかりなり。一合五勺に鳥居あり、少しく上りて平地あり。古へは「定禅院」と云う。小堂ありて、吉田の西念寺塔中清光院の住僧、毎歳六七月の間参籠して「常念佛執行」せりと云う。今は廃せり。宝永四年、同八年「念佛供養」の石塔あり。そのころまでは小堂も存せしにや。
<二合目・「小室淺間明神」>
二合目に「小室淺間明神」の社あり、これ蓋し、「三代實録」に載せる所、貞観七年十二月九目祭る所の杜なるべし。(神社部に詳なり)傍に「目本武尊」社ありしかど、今廃して神躰木像は本杜の社殿に納人たり。文治五年、覚実、覚臺坊と云う者、願主として造立の由神像に記したれば祠もその時の造営なるべし。また武田機山入道信玄手親所に彫刻の自像あり。これまた末社の一なりしか、神戸廃して本社に納めたり。(共に神社都に詳らかなり)
<役行者堂>
淺間社の西にあり、本尊ハ役行者にて、八代郡右左口村七面山圓楽寺兼帯する。古へ役ノ小角、伊豆の國に配流せられし時、この山を踏分け始めて頂上まで極むると云う。圓楽寺は本山伏の住む山にて、その徒は「小角」の跡を追い、この山に入るを修行とする。故に「小角」を、この地に祭れるなるべし。
この此所の塵役銭十二文を収める。毎歳六七月圓樂寺より僧侶が來て修法あり。ここより少し西へ上れば、広さ数拾丈の一片石ノ上を週ぎ巖路滑らかにして、攀(はん)難し。石面に空穴あり、径二尺ばかり、深さ七八尺、「御釜」と称する。 この辺りより上は「女人ノ参詣を禁ずる」。永禄七年六月、小山田信有が文書に(小佐野越後所蔵)、「女性騨定之追立」とあるはこれなり。また上る事二町ばかりにして小屋あり。「道祖神」を祭る。庄左衛門、幸右衛門と云う者二人、これを守りて、杖を造りて道者に売る。これを「金剛杖」と称する。三品あり、上直百銭、中五十文、下十六文、また役銭八文を収む。
<三合目・三軒茶屋>
三合目この所に「三軒茶屋」と云う。小屋二字、傍らに小祠あり、道了、秋葉、飯縄の三紳を祭る。三神の銅像あり。元禄元年六月三日月行「〔曾月(一字)〕?蒙御告新鋳小猿屋伊預持」と刻字あり。(月行者、富士信者五世の法嗣なり)
<三合五勺>
三合五勺に小屋一字あり、大黒天を安置する。
<四合目・御座石淺間・日本武尊(やまとたける)>
四合目、この所に峨々たる巖石あり、高三四丈、廣六七間その上に浅間明神の小祠あり。「御座石淺間ト號ス」相並びて「日本武尊」の小祠あり。永禄七年六月、小山田信有の文書に、「中宮之御座石云々」とあるは是なり。
<四合五勺・桜屋地>
四合五勺目。古くは小屋ありし所なり。「桜屋地」と称する。近世まで桜の大木ありて、五月のころ花開く。里よりこれを望めば、一片の白雲の如しと云う。
<五合目>
五合目、茶店五軒あり。この内一軒は手洗水、四軒は役銭請取の小屋なり。その役銭は三十二文は古くは参詣人に神供を配分せし料なりと云う。今は止めて唯役銭のみなり。また上る事三町ばかりして、「稻荷ノ小社」あり。古棟札あり、曰、----奉寄進富士山中官旦那太田右衛門二郎宣定本願頂仙、天文三年五月三日と同大日社、淺間社、都て三社、これを「中宮ノ社」と云う。永禄四年五月八目、武田信玄文書に爲社造営於吉田役所年々。十貫文づつ寄附云々とあり。永禄八年皿正月黒駒関銭の内十貫文寄附の事あり。永禄九年十二月、信玄ノ文書に、御供籾子毎月一駄づつ、寄附とあれば、国主より尊信せし事可レ知。茶店に懸鏡一枚あり。小屋主、織居と云者「空谷」より拾い得たりと云、文字あり。曰、----奉立願三十三度参成就子孫繁榮故也。富士淺間大菩薩、永禄三年四月十二目奉レ鋳所也、上野州群馬郡大工小島彌右衛門慰定吉総社の住人敬白----と、あり、「騮カ馬場」よりここに至りて、古木天を蔽ひ蘿藤(つた・ふじ)道を遮ぎりて、攀(のぼり)がたき所多し。ここより上は、砂石山をなし、草木不生。因て「毛ナシ」と称する。登路益々嶮し、四方を眺壁すれば、名を得る所の高山、皆目下に見える。またこの所に「遙拝所」あり。これ最頂へ攀(のぼ)る事不レ能者の拝する所なり。
<五合五勺・日蓮>
五合五勺、ここより西方へ小御嶽参詣の道あり。横吹と云う鳥居あり。横道三十間ばかりにして大門に出る。中腹より北方へ差出たる峯なり。社中、長二町ばかり横吹よりここに至りて鳥居六基あり。社中の事は神社部に詳なり。ここより、また西へ回る事二里ばかり呈して「天狗ノ庭」と云う地あり、古木甚だ短くして葉繁り皆人意を以って、作るものの如し。これみな烈風にもまるヽか故なるべし。小御嶽大門の前より頂上へ上る道あり「ケイアウ道」と云う。西風常に烈くして甚だ攀がたし。これ古道にして、今は道筋絶えて登る者なし。五合五勺、道より南の巖を「経カ嶽」と云う。相伝え云う。僧日蓮の法華経を読誦せし地なりとぞ。堂一字あり、その内に銅柱に題目を鋳付たり。但し、日蓮参籠の地は少しく、上に巖穴あり。今「姥ガ懐」と称す。これ日蓮、風雨を凌ぎし所なり。その時、塩屋平内左衛門が家に宿し、彼が案内にて登山し、この所を執行の地と定めけるとぞ。「日蓮年譜」に文永六年、これ歳如。甲州吉田、埋手書妙経一本富嶽半腹以爲後昆流布地人因名其所、曰、経嵩云々。是也。また少し登りて「不浄カ嶽」、古は六七月の間、山伏この所に籠居し、登山の旅人、不浄解除の祓せし所なり。故にかく称すると云う。ここより中堂廻ノ道あり。信者が山の中腹を回るを云う。少し上りて、小屋あり、「穴小屋」と号す。本尊不動明王、別に地藏菩薩二体あり。一は鋼像甚だ古物なり。一は鉄首銅身の像、銘あり。尾州口羽郷先達、天文廿二年五月吉目ト鰐口あり。古道より掘り出すと云う。長久二年六月一日と刻字あり。貞観六年爆火より、長久二年に至りて、百七十八年かく神器奉納の事ありしなれば、爆火の後無レ程登山せし事可レ知。
<六合目>
六合目、この辺りすべて「カマ岩」と云う。遠く望めば岩の形「カンマン」の梵文に似たり。故にかく称する。今、「カマ岩」と云うは詑なりと云う。されどかく称するも、すでに久しき事にや。大原旧記(「勝山記」カ)に、永正八年八月、富志(富士)鎌(釜)石燃えるとあり、この巖間より今もモ時々煙立つ事あり。火氣伏したるにや。(文化年代)小屋あり「端小屋」と云う。
<七合目・聖徳太子>
七合目この間小屋およそ九軒。この辺りより道益々急なり。「駒カ嶽」と云う所に小屋あり。「聖徳太子の像」並「鋼馬」を安置する。新倉村如來寺兼帯す「太子略伝」に云う。----推古帝六年夏、四月、甲斐國貢一驪駒、四脚白者、云々。舎人調子麿加之飼養、秋九月試馭此馬、浮雲東去、侍従以仰観、麿獨在御馬有、直入雲中、衆人相驚、三目之後、廻輿帰来、謂左右曰、吾騎此馬、瞬雲凌霧、直到富士嶽上、轉到信濃、飛如雷電、経三越、竟今得帰----、按ずるに、この古事を以って「駒カ嶽」と云いて、太子を安置せるあり。
<七合五勺・富士行者身禄・富士行者「身禄」>
七合五勺より上に、小屋三字あり。東方の巖を「亀岩」と云う。」その形の似たればなり。稍々上れば、「鳥帽子岩」と云うあり。享保十八年六月十三目「富士行者身禄」が入定の地なり。小屋あり、身禄の木像を安置する。その流れを汲む者、年々ここに登拝する。田辺十郎右衛門これを進退す。これより道益々嶮しくして、足進みがたし。不毛の砂中定まれる道もなし。一歩進めば半歩退き、雲霧脚下より起り、忽ち勝れ忽ち曇り、須曳の間明晦不レ定。
<八合目>
八合目は所レ謂、「大行合」なり。須走口より登る者、ここに会す。小屋四字あり。およそ登山の者、早天に吉田を発し、日暮れに着す。須走口もまた同じ。或は鳥帽子岩に宿するものあり、ここより下瞰すれば中腹より下は、皆平地の如く見ゆ。日暮れは、西天の雲紅色にして綿を散せるが如く、数萬里の間に渺漫たり。夜に入り四鼓過るまでも猶如レ此。故に夜更けに至るも不レ暗八鼓より、はや東方明になり、横雲は萬里の海上に棚引き、その間に嶋の如きもの数限りなく見える。漸々に紅雲東海に満れども、日の出まではなお、数刻の間ありと云う。大小屋に懸鏡あり。刻、----日大日尊奉納、富士岩駿州有度郡横田住人河村三郎右衛門、天正十九年六月吉日、大工家政----と。上の小屋に銅像の項地藏を安置する。雨天には水気を含む。故に称して「汗カキ地蔵」と云う。
<九合目>
九合目に小屋一軒あり。「向ヒ藥師」と云う。およそ中腹よりここに至るまで、小屋の地は山を穿ち、その内に柱を建つ。屋上は山と齊く石を以って、これを葺く。左右と前は、石を積みて壁とし、唯出入の戸を開くのみ。ここより上は道最も急なり。すこし上りて大圓石あり、白色にして滑澤あり影を寫す事鏡の如し。裂けて五段となり、その裂目直にして利刀を以って、割るが如し。ここにて東方へ向ひ日の出を拝す。日海上に浮きて、良友久しく大数十里ならんと見える。地平を離れんとする時、「彌陀三尊」の影巖上に写ることあり。これを「來迎」と称する。日輪海面を離るゝとみれば、瞬の間に天に升り、大さ常の如し。この圓石を「日ノ御子」と称する。『神社考』に曰く、----貞観五年秋、白衣神女出現、雙立舞遊、時火災揚有圓光、即祭レ之、号火御子----蓋しこれを謂うか。また上れば嶮岨愈々甚し、これを「胸突」と云う。岩壁の胸に迫るを事を云うなり。絶頂へ向かいて、両岸に木匡(わく)を建て、石を盛る事数十層、その間を升降する。これを「鳥居御橋」と云う。
<富士山頂上>
頂上に登り、左右を「薬師嶽」と云う。薬師の佛龕あり、別当大宮司(駿州富士郡の大宮神主)、役銭二十文(内十四文は大宮司、六文は吉田)小屋八字。四方に石を横にして壁として、一方に戸を開く。駿州須走の者ここに住して団子餅を売る。甚だ小にして、腹に満たず。およそ中合より頂上に至る。飯を炊くに、薪なく、また水なし。薪は中腹より以下深谷の内より採りて、谷々の小屋へ負擔(かつぐ)して送る、故に上るに随いて直彌々貴し。水は山陰の水を取って来て屋上に置き、中の流滴を汲む。峯ノ周回五十町。中央ハ空坎(あな)なり。深数百丈最底には常に雪あり。或は忽ち雲を出し、忽ち風を生す。周囲の峯を八葉と云う。空坎を内院と云う。高低の八峯を八葉の蓮花に喩え、八葉に各々佛号を配當し、坎中を都卒の内院に比す。
「都ノ良香」の記に、曰、日頂上有平地、廣一許里、其中央窪下、體如炊甑、甑底有神池、池中有大石、石體驚レ奇、宛如蹲虎、----云云
「神社考」に曰、----中央有大窪、窪底湛池水、色如藍染物、飲レ之味廿酸治諸疾、----云云。「神池」、今は存せず。数百年の間、砂石轉落して、埋まれるにや。窪中に南岸より指出したる巨巖あり、「獅子岩」と云う。その形、獅子の蹲踞するが如し。所謂、「體如蹲虎」とあるは、これを謂うか。八合辺りより、頂上も至るまで、異鳥常に栖む。その形、鵲(カササキ゛)の如し。「内院燕」と云う。「藥師ガ嶽」より左へ回れば、廣き平地あり。東の「賽の河原」と云う。十一面観音ノ鐵像あり。願主の名あり。曰、共尾張國海西郡津島村奉鋳之者也。檀那富士大宮司親時願主、津島住、吉左衛門有久大工、河内?村?左衛門尉??淺間嶽于時、明応二年五月十六日と。この所を「初穂打場」と云う。参詣の者より賽銭を坎(あな)中に投ずる。鐵身銅身の「大日座像」あり。銘あり。曰、尾州海道郡富士庄江西郷野間彌三郎、大永八年五月十三日、藤原敏久と傍らに、銅花瓶あり。寛文八年云云と記せり。
それより南へ回りて「勢至カ嶽」、「銚子カ窪」、南の「初穂打場」を過れば、小池あり。麗水常に湛えたり「銀名水」と云う。池の径二尺ばかり、旱(ヒテ゛リ)天にも水涸れることなし。「駒カ嶽」には梯子にて往来する所あり。銅馬あり是太子の驪駒に乗来て、休息せし地なりと云う。七合目にも同様の地名あり。また堂あり、「表大日」と云う。別當は駿州村山村山村大鏡坊、地西坊、辻坊の三家なり。この三坊より、古は山役料として、青指銭二貫文。太刀一振、袈裟一掛を毎歳吉田師幟の方へ請取り、谷村役所に納めると云う。秋元氏の領知たりし時、宝永二年、家士二名にて吉田師職の名主へ下知する書に云う。----表大日役料之儀者、上吉田名主方へ被置可差出候----とあるはこれなり。享保の末、斎藤喜六郎支配の時、宥免ありて、その証のみにて可也、とて数を減して二貫文の代に百文、太刀一振の代に小刀二本、袈裟一掛の代に注連縄に掛つゝ目録を添えて講取る、と云う。「諸州採薬録」に、曰、----富士山ハ甲州の山にて云々----駿河の富士といはせぬ爲に駿州の村山口より、太刀三振青指三貫文づつ、甲州郡内領の御代官御陣屋へ上納仕候由、當御代官被仰付候ハ其形計有之候へは能候間太刀三振の代に小刀三本、鳥目三貫文の代に三百文致上納候様被印付候云々----是ナリ。土人ノ所レ傳と品数不レ同。成澤村、正徳五年ノ村記に云う富士山北面へ駿河口より、相納候小刀鳥目袈裟等之儀を以持山の由証拠に申立候得共、先年は御領主様へ相納候所に御領に罷成上吉田、川口村之御師へ可預置の由被仰付候云々----この書に拠れば、正徳のころすでに三品数の減せりと見える。享保のころよりと云える、土人の説は誤なり。近來不納の年相続きて終わりに止めると云う。この所小屋二字あり。また鉄像の大日二体あり。銘に、曰、願主富士山奥法寺辻之防覚乗、尾州中島郡於今崎郷奉鋳此尊也。松本宥阿檀那等毛利廣氏並明窒等光大姉雅称野々村妙光、明応四年五月廿六日重吉道見永家妙蓮清久妙永光達貞信今枝定金重延僧都任秀----と、あり。
この所駿州大宮道あり。平砂の間小川の形あり。末は内院へ入る六七月の比は、水涸れて唯々空澗(日→月)なり。雪消のころ、また雨後などには、ここより水流れて内院に落ちる。これを「コノシロガ池」と云う。古くには水溜りて池を爲せしにや。名称、何の謂れたる不詳。この池の名によりて郡中?(チチカフ゛リ)魚ヲ不レ食。池上に小橋あり。ここを過ぎ少し行て、「劔ノ峯」の下に至る。また銅像の大日あり。----寛永元年六月、願主勢州渡会郡田丸領益田村成川茂右衛門----と、刻せり。また「剣ノ峯」の最下に鐵像の大日あり。銘に曰、檀那眞壁久朝白川弾正少弼政朝、在判、延徳二年仲夏十二日印目、安芸入道宗祥同兵部少輔政基安達大官正蓮妙心佐吉日善■■祐泉道音妙参と。「剣ノ峯」の坂路に大日あり。銘に曰、天文十二年五月十六日、濃州可鼻郡上任戸右衛門、金谷村入形九郎治郎、と。
ここより西北へ向けて上る道を「親不知」、「子不知」と云う。道は内院に傾き嶮阻甚だし。ここを攀(のぼ)る者一歩を過れば数百丈の内院に落ちる。この峯八葉第一の高峯にして、遠方より望めば、その形圭頭にして、劒を立てるが如し。故に名称とす。ここに登りて四方を下瞰すれば名だたる高山も皆平地の如くにして、ひとつも眼を遮ぎる物なし。宛然として空中に坐するが如し。眼力及ばされば、千萬里の外を眺整すること不能。唯々西は駿遠三及勢州の海岸東北は筑波山、日光、淺間ケ嶽等小庁の如く東海は渺(びょう)々たるを見るのみ。登山の者多くは嶮路を恐れて、ここに上らず。
この中腹を過て北へ回り「釈迦カ嶽」に至る。内院の方を過るを「内濱」と云う。峯の外を回るを「外濱」と云う。外濱の道は巖虧(かけ)落ちて人蹤(あと)及ばず。およそ嶺上の地焼砂の中に堅実にして滑澤ある細石雑り。或いは白く或いは黒く、皆研けるか如し。宛も海濱の波に磨かれたる石に異ならず。都氏の記に窪底に湛池水とあれば、上古は内院の穴に水を湛へたりしも知るへからず。故に斯く水辺の如き石今なお存じて内濱、外濱の名もあるにや。また西北の方は数千丈の谷ありて、砂礫常に飛流し、その声は雷の轟きの如し。中腹に下りては、廣数萬歩脊底の深測るべからず。棚数百段ありて、裾野に至ては益々広し。中腹を攀る者、ここに至りて過る事不能。遥かに裾野へ下り、漸く向の岸に移る。この間一日路ありと云う。これを、大澤と称す。按ずるに古詠にある所ノ鳴澤は、この澤の事ならんか。萬葉集に、
さぬらくは、たまのをばかり、こふらくはふじのたかねの、なるさわのごと
と、あり。
続古今 後鳥羽院
けふり立思ひも下や氷るらん ふしの鳴澤音むせふ也
新拾遺 慈圓
さみたるゝふしのなる澤水越て 音や姻に立まかふらん
新拾遺 権中納言公雅
飛螢思ひはふしと鳴澤に うつる影こそもえはもゆらん
夫木 俊頼
紅葉ちるふしの鳴澤風越て 清見か闘に錦おるらし
夫木 俊成
さみたれは高根もくものうちにして なるさはふしのしるし成けり
家集
源氏眞山澤のおとになるさのみなかみは 雪吹ふしの嵐なりけり
「無名抄」に云う。
五條三位入道は此道の長者にていますかされと、「ふしの鳴澤」を「ふしのなるさ」とよみて、「なるさの入道」と人にわらはれたまひしかは、いみしき此道の遺恨にてなん侍りし、これほとの事しり玉はぬにはあらすおもひわたり玉へりけるにこそ、藻塩草の一説には、「鳴澤」にあらす「な石」さと書なり、「なるさ」とはふしの山より、いさごふる事あり、其鳴音を「鳴沙」と云。ふしの山には白砂麓へ流れくだる事は一定なり。人のおるゝにつれて「いさご」下りて一夜の間に上ると云々。此説甚だ非なり。實地を踏ざる人の臆測なり。人の下るに連れて、砂こけ落ち、一夜の内に上ると云へるは登山の者の下向道にして、今これを「ハシリ」と称す。走り下るに随いて沙落る事は「藻塩草」の云うところの如し。而て一夜の間に上ると云うは、今も言ふ事なれど信じ難し。鳴澤の實地外に當るべき所なし。偏に大澤の古名なるべし。況(いわん)や、この澤の麓に至て「鳴澤村」ありて、古名を存するをや、然れば鳴澤は駿河に非ず。
然(さ)て「剣ノ峯」を下れば「西ノ饗ノ河原」に出る。この辺り常に雪ありてテ巖下に氷柱下り極暑の節といえども塞氣堪がたし。また行く事数十歩にして小池あり。麗水常に湛たり。これを「金名水」と称す。旅人これを汲みて、竹筒に入れ、或いは浄紙に?(ひた)して持ける。また「釈迦カ嶽」、「裂石」と云う所あり。この「外濱」を回れば奇巖突出し甚だ攀がたし。岩窟に取(糸追→一字)り絶?を升降して、漸く進む。窟中に「大日ノ懸鏡」あり、径一尺八寸、銘あり。云、文亀三年八月吉日、願主太郎三郎、と。
また岩窟ノ間わずかに膝を容れるばかりの石あり。これ「安山禅師」入定の所なり。それより少し下りて、「弟子久圓」と云う者、師の跡を遺て、同じく入峯し跡あり。時に延宝五年五月十日なり。その伝、記別に記せり。骸骨、全くして近時まで存せしかど、大地震の時巖崩れて骨と共に深谷に落失せぬ。また東へ回れば漸く高平の峯に出る。石を以って丸める中に白骨あり。これは六七十年前、或執行者の入定せる遺骨なりと云う。人或は「安山ノ遺骨」と云うは誤なり。これより「藥師カ嶽」に下り、旧の道を下向する。八合目に下り、ここより「走道」に係り、五合五勺目まで砂礫と共に走り下り、「砂佛」と云う所に至りて止まる。ここに、二小屋あり。下向の人、休息する。懸鏡あり。銘に、----武州大里郡佐谷郷佳居、願主祐快、天文四年六月一日松鋳平子駒鋳、藤原長泰満吉千手平賀辰子小蔵梅子妙祐藤子松子----と、梵文八字あり。ここより左へ下れば「小御嶽」、右へ下れば、中宮に出て、初の道を下向すべし。