武士に化けて道中する歌舞伎役者
江戸時代の歌舞伎役者は千両役者という熟語の生じたほど、名優には金持になる者が多かった。この役者は金持ち、ということと、四民の外にあるという社会的身分の低いことから、旅の道中では雲助や川人足がつけこんで、過大な酒手を要求したものです。
その災難をさけようとして、江戸の役者が上方(京都か大阪)へ行くときは、武士に扮装して道中するのが常識とされていました。それはただ身なりを変えるだけでなく、手をまわして適当な旗本の荷札をもらって、その旗本になりすましての道中です。
正徳年間のこと、二代目中村七三郎(山口素堂と懇意)は和事の名人として人気があり、京都へ上るとき、旗本の加藤小左衛門から荷札をもらって、両刀をたばさみ武士になって道中をしました。ところが大井川までくると、川人足に役者と見破られたので、しかたなく多分の酒手を出して川を渡してもらいました。そして向う岸へ上るとき、「……あとから、さるお方の荷札をもらって、中村伝九郎というわれらの仲間がくるが、これは剛情着でなかなか役者の
どろをはくまいから、どうかそのまま武士として渡してゝもらいたい」と言って七三郎は京へ向いました。
川人足どもは喜んで、むろんその言葉に従うはずはない、また一人役者から酒手にありつけると、手ぐすねひいて待ち受けます。そこへ本物の京極家の武士が一人通りかかった。これを役者と思いこんだ川人足どもは、さんざんな目にあいました、七三郎の復讐計画が図に当ったのです。
江戸時代の歌舞伎役者は千両役者という熟語の生じたほど、名優には金持になる者が多かった。この役者は金持ち、ということと、四民の外にあるという社会的身分の低いことから、旅の道中では雲助や川人足がつけこんで、過大な酒手を要求したものです。
その災難をさけようとして、江戸の役者が上方(京都か大阪)へ行くときは、武士に扮装して道中するのが常識とされていました。それはただ身なりを変えるだけでなく、手をまわして適当な旗本の荷札をもらって、その旗本になりすましての道中です。
正徳年間のこと、二代目中村七三郎(山口素堂と懇意)は和事の名人として人気があり、京都へ上るとき、旗本の加藤小左衛門から荷札をもらって、両刀をたばさみ武士になって道中をしました。ところが大井川までくると、川人足に役者と見破られたので、しかたなく多分の酒手を出して川を渡してもらいました。そして向う岸へ上るとき、「……あとから、さるお方の荷札をもらって、中村伝九郎というわれらの仲間がくるが、これは剛情着でなかなか役者の
どろをはくまいから、どうかそのまま武士として渡してゝもらいたい」と言って七三郎は京へ向いました。
川人足どもは喜んで、むろんその言葉に従うはずはない、また一人役者から酒手にありつけると、手ぐすねひいて待ち受けます。そこへ本物の京極家の武士が一人通りかかった。これを役者と思いこんだ川人足どもは、さんざんな目にあいました、七三郎の復讐計画が図に当ったのです。