素堂の辞世の句について 初夢や通天のうきはし地主の花
『通天橋』
○ 俳諧大辞典
素堂の追善集。山口黒露辺綜。享保二年(1717) 八月中旬刊。
素堂の一周忌にあたり、猶子黒露が編んだ追善集。
雁山・琴風・百里の三吟歌仙
湖十・雁山らの一周忌歌仙ほか三歌仙
姑徳・育蛾・百里・祇空:言水らの追悼句
内藤露沾の序、末尾の雁山による「追亡」の記には、素望の晩年から終焉までの様子が詳細に記されている。素堂の時世の句はなく、
初夢や通天のうきはし地主の花
の句を最後に載せる。
露編「通天橋」跋文
(中略)水無月の暑影にもけふの命もあすのいのちもと思ふよとごち給ひしか。程なく病床に打臥しはふ月の末なり。日ごろ近きにと僕伝九郎が知らせ来るに、急ぎものして一夜ふたよ病をたすけしもつゐのこととなりて、薬つめたく床あらはに、中秋の夕とみの終りをとりぬ。かなしきことども多かる。明る十六日の暮方に谷中感応寺に葬り、親き者のみつどひよりてかたのごとく孤墳を建つ。干時翁七十五。終焉の句とてもなかりしか。それの春野夫京師に侍りしに、ことの便りに此句にて心得よとていひ送られしか。猶その際迄も都の花をしたふこゝろいと浅からずや。実に今おもひ合すればとく其期を知れるにや。かの文の奥に
初夢や通天のうきはし地主の花 素堂
○ 東福寺
続最新 大日本地理集成下巻 交通・名勝之部 角田政治編。大正六年刊。
(大四章 近畿地方 京都府 京都)
一ノ橋の南にあり、臨済宗東福寺派の本山。禅宗京都五山の一なり。聖一国師の開基。建築壮麗、美術史上載るべきもの多し。総門は文永年間、大内裏の月華門を賜りしものにして、約六百五十年の古建築なり。次に山門は五百年以前のものにして、山門建築中最も古く、又珍奇の構造を有す。楼上十六羅漢を安 置する。天上の極彩色繪は兆殿司の筆。又東司即ち廓は、組物の手法珍しく、特別保護建造物たり。寺賓中最も名あるは兆殿司筆の捏磐像にして、俗に例に違ひて、猫を書きたりといふもの是なり。其の他呉道に筆釈迦三尊の優等名作多し。
※通天橋は寺内の渓流に架せる廊橋にして、橋下に楓樹多く、通天の紅葉は古来洛陽の一大勝区たり。
○ 京都文学散歩…臼井喜之助氏著。昭和四十二年刊。
東福寺の通天もみじ…(前略) 作家の長予善郎がかつてここへ訪れた時の文に、
「通天の紅葉は実に見事であった。第一地形が申し分なき名勝である。次にその地形に配置した結構の調和が妙を得手 いる。こういう名勝がすべてそうであるように、申し分なき自然と、申し分なき人工とが、何百年という星霜の苔を通して完膚なく一つに融け合い、落ち着き切っている。回廊の如きこの橋 (通天橋)は後で聞けば、京染の模様などにもなって居り、通天といえば浄瑠璃にまで馴染みのある五山の一との由。(略)
さて棄福寺は嘉禎三年(西暦1236年)時の関白藤原道家の創建で、聖一国師弁円を開山とし、その寺名も、奈良の東大寺と興福寺の二つを合せて東福寺とつけたといわれる。名刺で、京都五山の第四位に位する格をもっていた。中略
いずれにしても、通天は紅葉の美しいところであり、その数の多い橋廊の柱が造形的な美しさを見せている。又通天の橋の下の渓流を洗玉潤といい、上流に催月橋、下流に臥雲橋があるなど、いささか中国的な命名である。通天橋の北端に開山堂と普門院があり、ここは開山国師の常住した方丈と伝える。
なお、虚無僧という名で親しい尺八明暗流の本拠もここにある。ここの塔頭の一つに、「明暗寺尺八道場」というのがあり、そこから毎年免許証を発行し、天軍紺の簡そで、白足袋に、一管の尺八をたずさえ、普化の僧となって、全国に托鉢に廻る。(中略)
なお俳人川端茅舎も、かって東福寺の正覚庵で病をいやしつつ絵を描き句を作っていた。(中略)またこのあたりに、「ふる池や蛙とびこむ水の音 はせを」「通天へ来て餃月を見とれけり 如空」の句碑もある。
○京都府の歴史散歩 中 山本四郎氏著。1995年刊。
東端備寺…京都市棄山区本町15丁目。
臨済宗東福寺派大本山)は旧市内南東端、月輪山を背にした景勝の地にあり、寺域は五万坪(16万500㎡、京都の大書専では建長寺に次いで古い。本尊は釈迦如来である。(中略)宗から帰朝した円爾弁円(聖一国師)を知り筑前の崇福専ら招いて開山とした。(中略)室町時代には岐陽方秀・桂庵玄樹・文之玄昌らを輩出、この三人は朱子学上重要な人物である。(中略)
方丈の北を流れる洗玉潤(せんぎょくかん}は谷になっていて、東から偃月橋・通天橋・臥雲橋の三つの橋がかかっている。紅葉の名所として有名な通天橋は開山望と普門院に至る廊下の途中にあり、円爾が南宗の径山の橋を模したともいう。