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大将のありかた 武田信玄と山本勘助

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大将のありかた 武田信玄と山本勘助
 『甲陽軍鑑』 品第三〇
 
 ある時、晴信公は山本勘介を召し寄せて問われた。
『他国を占領した際、その国の侍をすべて斬り捨て、または追放し、一人も召し抱えず、もとからの譜代だけに、その国の領地を分割するというやり方はどうであろうか』
勘介は承って申し上げる、
『それは、その大将が自分の手柄を誇り、将来への配慮もなく、外聞を気にしての浅はかな判断であります。国持大名としてなければならない慈悲の心に欠けたために、天のお憎しみを受け、遠からず災難が起こるという例を、私なども再三見聞しております』
晴信公はまた、
『関東管領上杉則政の様子ほどうか』
とお問いになった。
勘介が申し上げる、
『則政は、人を召し抱えて大切に扱いますが、これは外聞を大事にしているためで、各国各郡の領主たちにこれを宣伝されるので、各地にそのうわさが大いにひろがって、諸国から人びとが集まってくるものと考えているようであります。そうなれば、管領則政の威光はあがり、少数の兵力しかない北条氏康もそれには恐れ、またその支配下の老たちも、みな則政を恐れるであろうというので、大身の親類、遠国の浪人などを抱えております。これらの新参の人びとが幅をきかせ、知行を不相応に多く取って、精勤しております。それにひきかえ、昔からの譜代の人びとは、一〇人に一人も熱心に励むものはおりません』
 ここで晴信公は、大いにお笑いになって仰せられるには、
『上杉則政は、降参してきた侍音大事に扱うがよい事と思い込み、前後の考えもなく厚遇するために、古参の者は恨みを抱いて役に立たず、新参の者は思いあがって大将を軽んじ、これも役に立たず、双方ともに忠功を怠っていたため、少敵の氏康に切り崩され、合戦に敗れたものである。則政のやり方は、たとえば医師が病気を治そうとして薬を与えたとき、医師のくふうが悪いと、その薬が毒となって人を殺すことがある。これを世間の人びとは「薬は人を殺さぬ。医者が人をころす」というのである。それと同じように、大将の人の使い方が悪いために、家臣の者たちが悪くなったのを、よく家臣の老たちの責任とする者があるが、晴信は、武田重代のお旗、楯無の鎧に誓っても、そのようには思わぬぞ。家臣の大身、小身、上下にかかわらず、その善悪の行いについては、大将が善であれば、その下の人びともすべて善となる。
大将が悪であれば、その下の人びともみな悪となる。大将が正しければ家臣も正しく、かくて上下ともに正道を行くことによって戦さに勝つ。戦さに勝てば、それによって大将の名が四方にひびく。その名が四方にひびけば、大将の名声が高まるのである。
 とはいいながら、大将が実績もないうちから、名声だけをほしがるのは、恥の根本である。それを知らぬ大将は、人が誉めさえすれば、その老を大事にして、忠節忠功の侍を悪者扱いにし、その恨みを受けるのである。家来の恨みは、必ず人罰となって、大将の身にも及ぶという。その罰に当って、味方は大きな兵力を持ちながら、負けるはずのない小勢の敵に敗れ、汚名を受けたのである』  
と。
 このお言葉を承った山本勘介は、涙を流し感じ奉ったという。
  あるとき、晴信公は山本勘介を召して仰せられた。
 『晴信の人の使いようというものは、決して人を使うのではない。能力を使うのである。また政治を行うにあたっても、能力を生かすことを眼目とする。能力を殺すことがないように人を使ってこそ、満足出来るのだ。
 晴信の人の見方というものは、まず信念を持たぬものは向上心がない。向上心のないものは、研究心を持たぬ。研究心のないものは、必ず不当な失言をする。失言をするものは、必ずのぼせあがるかと思えば、消極的になる。のぼせたり、沈んだりするものは、言行が一貫しない。言行が一貫しないものは、必ず恥をわきまえない。恥知らずのものには、何をさせてもすべて役に立たぬものである。
 しかし、そのようなものであっても、その性質によって生かして使うことは、国持大名としての一つの慈悲である。
 国持大名の慈悲、功徳というものほ、神社・仏寺に領地を献じ、出家を好適すること。他国の城主が領地を奪われて浪人していれば、それを保護し、もとの領地を攻略して、その本領に復帰させること。小身の浪人をも養っておくこと。他国を攻め取ったならば、その土地の領主を味方として抱え、人びとが困窮せぬようにすることなどである。このような慈悲、功徳を積むことによって、戦鮒を繰り返し、城を攻め落とし、あるいは国内の治安のために罪人を死刑・流刑に処するなどして積んだ罪も、消滅するのである。この意味から、国持大名は、慈悲、功徳というものを大切に考えるのである。
 次に、よく人びとが過言(思いあがった失言)と因言(高慢なことば)とを、同じことのように言っているが、国言とは事実を大げさに言うものであり、過言とはないことを言いふらすものである。従って、武士が因言をすることは、さほど困ったことではない。因言を言うほどの武士は、大抵自信を持っており、憎むべきではないのだ。ところが過言というのは、つくりごとであるから、それを言う侍は、三度ものを言えば、三度言葉が変わる。それは嘘をついているためであるから、必ずやめさせねばならない』
 山本勘介は深い感銘を受けた。

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