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武田信虎年表 天文22年~23年

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○天文二十二癸丑年(1553
正月朔日戊司。
正月十五日立春。穴山彦六郎屋所へ移徒として来る。
正月十七日甲午小田原より使者に御対面の時、小山田(兵衛尉信茂)、宮川(将監)ばかり烏帽子着け申され候。
正月二十日、氏康よりの御状並びに紬十端彦六郎方へ給わり候。宮川将監自面の樽、仁百疋、太刀一腰持参、返札にキヤウロク一まき持ち行く。
閨正月小朔日戊申。
閨正月十一日、鮎川藤五郎に石森下され、同心仕り候得と候由上意。
閨正月十五日節。
閨正月十八日、諏訪方之御渡しに冬春二度之御渡し前後、始めのよし各申し候。
閨正月二十四日、仁科匠作(仁科修理亮盛康)始めて出仕。
二月十五日丁丑、鮎川藤五郎に万森の御印形跡次を以て高白方へ下され候。
二月六日壬午岩殿の橋かかる。太刀一腰、酒一具並びに三十疋遣わし候。
二月九日乙酉積翠寺入院。午刻本尊客殿へ入仏す。
二月十三日、依田大和守(信州小県の将)方中丸子、下丸子(ともに小県の南部)先々の如く相違在る可からず候。藤沢はいずれなともハゲ山、塩川合わせて仁百貫文の替地者何方成共遣わさる可き之由、御判下され候。
二月二十一日戌刻、来る甲寅の年小田原へ御輿入らる可き由、晴信公より御誓句。氏康より之御誓句は去る正月十七日に来る。
二月二十四日慶子、積翠寺授割初並びに田畠山等の義は山本孫右衛門渡す。
二月晦日。
三月朔日丁未。
六日壬子小松、和田、塚原、岩窪(以上現甲府市)・駒井(韮崎)の郷の人足押し立て、公事等の儀御免の御印形下され候。
十七日節、小田原より南条差府。栗原左兵衛方へ太刀一腰並びに千疋遣わされ候ガ十八日甲子、於曾源八郎(未詳)深志へ越えて二度帰府無く候。
二十三日己巳午未刻、丑方に向い御出馬。
二十九日乙亥辰刻深志を御立。午刻、苅屋原(松本の北方)へ御潜陣。
晦日、城の近辺放火さる。
四月小朔日丁丑。
四月二日戊司午刻、苅屋原の城攻め落され城主長門守(太田弥助)生け捕る。酉刻に晴吃塔原の城自落。
四月三日己卯、会田虚空蔵山まで火を放つ。苅屋原の敵城を割り、酉の刻寅の方に向い御鍬立。栗原左兵衛相勤むる七五三。
四月六日壬午御先衆十二頭立てさせられ候。昨日屋代(越中守正国)方、塩崎方同心致し桑原の地無最の由御注進。
四月八日甲申、苅屋原の城主今福万見守仰せ付けらる。御使い典キウ(典厩・信繁)栗原左兵衛。
四月九日辰刻、葛尾(村上の本城)自落の由申の刻注進。屋代、塩崎出仕。
四月十日、石川方へ使いに朝見越前守(未詳)来る。
四月十二日、典厩御伴致し葛尾に使いに参る。上意の旨長馬に越秋善(秋山善四郎)に申し渡す。
四月十五日辛卯巳刻、苅屋原御立、青柳へ御着陣、泊る。石川出仕。大津賀久兵衛御目にかけ候。
四月十六日高坂出仕。
四月十七日節。典厩青柳の城の御鍬立。
四月十八日甲午、没日室賀(山城守信俊)出仕す。
四月二十二日、御人数八頭八幡(現更埴市)の筋へ御立ち候。敵五千ばかり打ち向うの由。
四月二十三日己亥葛尾在城の御味方衆、於曾源八郎方討死す。
四月二十四日辰刻、御馬苅屋原へ納めらる。晩より大雨。
四月二十五日、大日方入道御代方へ参られ、某陣所に泊る。麻積、青柳、大岡の儀談合。
五月大朔日丙午。上様深志
へ御出。麻積の儀落着候由、大岡屋代方より書状に候。
五月二日、小田原桑九(桑原九右衛門)先御加勢御無用の由、手紙を遣わし候。
五月五日庚戌塔原の城破却す。
五月七日壬子海下方(未詳)へ苅屋原の地借なされ候。其上甲郷極きをきって城きわ二百貫ばかりの地進上仕り候由、海下申され侯。之に依り新村へ参百貫者会田本意の間と御判形に遊ばされ候得共、海下に永く下され侯由、仰せ遣わされ跡部御使い仕り候。
五月八日癸丑、平瀬の城破却を御覧、すぐに深志へ御馬納めらる。甲郷、今福に海下方へ渡し侯得と仰せ出され候。今福迷惑の由申され候。海下を深志へ相招き意見致し、三百貫落渚致し候。新村三百貫は永く海下に下され候由、御判出され候。
五月十一日丙辰戌刻御潜府、雨。御新造様(義信夫人)より御樽ニツ御肴両種遣わされ候。
六月小朔日丙子、二十一日動の談合、塩田に向い仰せ定められ清野左近太夫(村上氏分流)、長野刑部(未詳)両人に信の一字下される。
七月大朔日己巳。
七月二十三日丁卯、京都より太郎様へ御一字下され侯御使者参る。酉の刻御対面。
七月二十五日己巳午刻府中を御立、若神子へ御着陣。
七月二十六日、海野口に某は帰陣。
七月二十八日内山へ御着城。
晦日甲戌望月古城御陣所。
八月朔日乙亥、長窪へ御陣すえ居らる。和田の城(大丼氏一族の属城)攻めなされ、城主其外悉く討ち捕りなされる。
八月三日、高鳥屋へ登り見物。
八月四日戊司高鳥屋籠城の衆悉く討ち取られる。同田村落居。申刻勝利。
八月五日、塩田に向け御動き。地の城自落、本城に御旗立てらる。
八月七日幸巳、戌刻、飯富当塩田城主の御請け申さる。滅日。
八月八日壬午、本城へ飯富罷り登られ候。
八月十日、真田子(真田幸隆、子昌幸)在府に付いては秋和(現上田市)三百五十貫の地真田方へ遣わされ小備(小山田備中守)仕り候。
八月十一日、室賀(山城守信俊)同小泉(喜見斎)へ所帯の御判形下され候。小泉の城破却、御祝着の由仰せ出され候。
八月十二日、内村五百貫下され侯由、大宮、山形へ。
八月十五日ヤキサワ三百貫、福田百貫の事は証人有難く申す所、此以前浦野方(左衛門幸次)に下され候。此御使者跡次(跡部次郎左衛門尉昌副)仕り候。
八月十六日庚司、庄内の中、千貫彌津(松鶴軒常安の兄)へ進ぜられ御判形。福井四百貫寿量軒(未詳)に下され候。根津宮内(少輔元直)方へ上条下さるの御判形渡し候。
八月二十八日壬刁、長筑(長坂筑後守)・跡伊(跡部伊賀守)、等河(未詳)、香坂へ出仕す。晦日甲辰飯富(兵部) 室カ(室賀)の本城へ移る。
九月小朔日乙巳麻積小四郎方へ来国光の刀遣わされ侯。栗原左兵衛方へ信国の刀下され候。越後衆八幡に動き、破れ新睡(荒砥城)自落。
九月三日土用。青柳を敵が火を放つ。
九月四日戊申、山宮と飯富左京と苅屋原へ越し候。会田の虚空蔵落居。晴信公御吉凶天祐の裸大吉。敵景虎吉凶無明裸大凶。尾州に向け義元御出馬。
九月五日栗原・大井・下曽根・下条・今福・両角深志へ帰城。
九月八日、松本の郷二百貫の御印判、曲尾越前守(未詳)に下される。
九月十三日夜、尾見(麻積)新戸を忍し焼く。敵の首四拾栗原討ち捕る、敵首七、室賀方討ち捕られ候。翌朝、各に御褒美下され候。
九月十四日戊午、晴信御吉凶天祐の裸大吉、敵の吉凶無明の裸大凶。
九月十五日己未申刻、御注進敵夜中に除くの由申し来る。
九月十六日、窪村源左衛門高名。敵、仁内匠(仁科修理)、彌津治部少輔、奥村大蔵少輔討ち捕り・並びに景虎書状三通大集取り来り、塩田御陣下へ参り候間、御褒美をなし、則、源左衛門へ此忠節によって百貫地下され候。
九月十七日、余部左京方へ長塚(現敷島町)の内十二貫文の分の夫銭、並びに棟別家一御免之御印判下され候。敵動きかかる南条へ火を放つ。之に依り中途に御馬出さる。
九月二十日甲子、越後衆退くの由巳刻に申し来る。
九月二十八日、小幡父子出仕す。
十月大朔日甲戌。
十月三日、高坂香監(末詳)参陣。
十月五日、長筑(長坂筑後守)、岡源五郎(義信近習)真田息女縁嫁並びに長筑彦十郎、高木入道是も尤之由、戌亥刻上意之旨高白所へ御直筆下され候。
十月六日、曲尾越前守被官始めの為、水出次郎右衛門三人、松本の郷之内三十貫下され候。同松本の郷之内二十貫文残る三人に下され候。
十月七日庚辰辰刻塩田御立ち、深志へ酉の刻に御着陣。
十月十五日、大日方惣次郎方へ信の一字を下され候。
十月十六日、高崎辺まで御帰陣。
十月十七日、御帰府。
十月二十二日節。
十月二十七日庚子、今井次郎左衛門(未詳)他国へ。
十一月小朔日甲辰
十一月二十一日甲子、十五表虎岡土佐守、五味次郎左衛門、山本孫左衛門、呂泉、長谷部右近之丞三十五人、預け置く利倍。長宝寺より酒肴五献。
十二月朔日癸酉。御沙汰の奉行衆十三人、日限は三日、十三日、二十三日之定。
十二月六日戊司長筑宿所へ屋形様始めて御出。同御曹子様へ申し立て侯、岡源五郎方へ御一字申し請けられ侯。七月土用。
十二月十九日幸卯午未刻、義信御名乗り開きの御儀、中の問座敷建つ。
十二月二十五日立春。
 
天文二十二癸丑年栗原左兵衛
先祖栗原式部大輔同左衛門同左兵衛五十五年之日記也
延享二乙丑年柴田伸助(甲府城の与力)
 

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