武田信玄と貝殻の数
武田信玄晴信公、十三歳の御時、駿州義元の御前は、信玄の姉御にておはします。此の姉御の御方より母公へ、貝おほひのためにとて、蛤をおくりまゐらせらるゝ。
信玄公を勝千代殿と申す時なれば、御母公より上をもつて、此の蛤の大小を屈従どもに申し付け、えりわけて給はれとの御幸也。即ち大をばえりて参らせられ、小き蛤、たゝみ二帖敷ばかりに大方塞り、たかさ一尺も有りつらん、是れを屈従どもにかぞへさせ給へば、三千七百あまりなり。其の時諸士参供せしに、此の蛤は、何程あらんと問はせ給ふ時、各有功の人々、二万或は一万五千などゝ申す、勝千代殿仰せらるゝは、人数は多くなき物ならん、五千の人数せ持つ人は、何をいたさんもまゝなりと、仰せられしをきくはどごとの人、したをふるはぬ者はなし。是れ信玄公、十三の御年なり。(甲陽軍鑑)