白州町の歴史・史跡 白須氏(白州町誌)
一条源入時信が武川衆の祖にして、その第三子貞信が白須三郎を称したと記しておいたが、「寛政重修諸家譜」では次のように述べている。
家伝に其の先、新羅三郎義光の庶流にして一条上野介貞信がとき白須を称すという、「官本尊卑分脈」に武田太郎信義が男一条次郎忠頼あり、また武田大膳大夫信光が男に一条六郎信長みゆ、その子孫上野介貞信なるもの所見なし、としてこれを否定し、
按ずるに信光が子武田小五郎信政が四代の孫甲斐守貞信、その二男を上野介貞政という、家伝に上野介貞信というは、もしくは貞信・貞政父子の名を混ぜしかといい、しかれども貞信父子に一条の称号見えざることはうたがうべきもなきが故に、しばらくこれをしるして武田庶流の下に記す」として、一条時信を祖とする武川衆でなく、信長の兄信政の裔であるとしている。
「姓氏家系大辞典」では「清和源氏武田氏族、甲斐国北巨摩郡白須より起りしなるべし。
「武田系図」に甲斐守信長―八郎信綱―甲斐守時信―貞信(白須次郎)と見ゆ、
「一蓮寺過去帳」長禄元年に白須蔵人、
「太平記巻」三十一に(観応三年・文和元年 1352)白須上野守あり、此の族か。寛政系譜に白須氏二家を載せたり、其の家伝に一条上野介貞信の後なりという、家紋亀甲の内輪違」と述べている。
「甲斐国志士庶部」白須蔵人の項
府中一蓮寺ノ過去帳ニ法名ハ老阿、長禄元年(1457)十二月廿八日小河原合戦討死ノ内二見ユタリ、余ハ名ヲ全ク記セザレバ挙ゲス」と言っている。誠に不明な点が多いわけである。
しかし国志は他の資料によって、その事績を次のように述べている。
「太平記」観応三年ノ条二甲斐諸将ノ中白洲上野守アリ、軍鑑長篠ノ役典厩信豊モ馬乗ハ只三騎、慕フ敵ヲ追払ヒ追払退キ玉フ、「甲陽伝解」ニ白須又市、青木主計、横手源七郎三騎ナリ、始メノ返シニ主計ハ討死トアリ。
白須平次ハ又市ノ男、竹重信勝ノ小姓也。武家盛衰記ニ壬午ノ(天正10年)後幕府ニ召出サレシガ小姓衆卜口論アリテ御旗本ヲ立退キ、稲葉蔵人道通ニ依頼シ名ヲ又兵衛卜更メ後ニ家老トナル。関ケ原ノ時勢州岩手ニ於テ九鬼方堤荘蔵卜戦ヒテ功アリ、同藩種田喜左衛門ノ二男金三郎ヲ婿養子ニシテ白須十郎兵衛ト云ヒ、食禄五百石ヲ譲レリ。慶安中稲葉紀通ノ家断絶シテ白須ノ子孫ハ豊州(大分県)臼杵藩ニアリト云